No. 55 勅使河原由江様 (足利赤十字病院) 前編「病院移転という重大任務を担って」

インタビュー

今回は足利赤十字病院の勅使河原由江看護部長様にインタビューさせて頂きました。

勅使河原看護部長の手腕に迫ります。

厳しかった全寮制の3年間

ご自身が看護師になろうと思った理由やきっかけがございましたら教えていただけますか?

勅使河原:中学2年生くらいの時、友達と将来自分たちがどんな職業につきたいのか話したことがありました。

私もその友達も、「子どもが好きだから保母さんか看護婦さんがいいね」という話になって、保健の先生がきっと良く知っているだろうと思って、先生のところへ行って「看護婦になるにはどうしたらいいですか?」という質問をしたことがあったのです。

まだ私たちの時代は「看護師」ではなくて「看護婦」で、「看護婦さんは白衣の天使」というイメージがありました。

その頃から少しずつ「人のためになる仕事っていいな」と思って、具体的に看護婦になるために必要なことを自分でもいろいろ調べたりしているうちに、徐々に「私は看護婦になろう」という考えが確立していきました。

一緒に話していた友達は、保育をやりたいということで保育専門学校に進学したので、2人が進む方向は変わりましたが、そんなことが看護師を目指すきっかけでした。

高校から看護学校へ進学されたと思うのですが、どのように看護学校を選びましたか?

勅使河原:私たちの頃は看護師になるためには短大か看護学校という選択肢が多い時代でした。

私はどちらかいうと短大よりも専門学校で専門的に学ぶことを選びました。

最初から赤十字を目指していたわけではなく、いくつか学校を受けて、2つほど受かった学校の中に赤十字があり、どちらを選ぶか迷いました。

赤十字の学校は3年間全寮制で、もう1つの学校は通学できる学校だったのですが、自分の中で全寮制というのは初めての試みで、チャレンジしてみようという思いと、赤十字という日本だけではなく世界で活躍している組織に自分も入ってみようと考えて入学を決めました。

しかし、高校を卒業してそのまま親元を離れて寮に入ることになるわけですから、全寮制には最後まで抵抗がありました。

実際に看護学校に入られて、寮生活や実習などで、何か心に残るようなエピソードはございますか?

勅使河原:全寮制の学校でしたから、まったく知らない人たちが集まって生活すること、それ自体が私にとっては大きな出来事でした。

それまでは先輩の2年生が2人と1年生が2人の4人で1部屋だったのですが、私たちの時だけはお試しで1年生だけでやってみようということで、4人のお部屋に2年生が指導者という形でつき、非常に厳しい寮生活が始まりました。

特に朝の始まりの点呼から、夜寝るまでの点呼まで、まるで軍隊を想像するような、非常に規律の厳しい毎日でした。

寮に入ってすぐにいろいろな規則があることを知って、そのような環境で生活をすることが初めてで、非常にカルチャーショックでした。

お部屋の作りも、畳の部分が4畳とフローリングに机が縦に4つ並んでいて、そこで勉強をして、あとはお布団を敷いて寝るという生活でした。

最初のうちはそれぞれ座学が多かったので、それほど皆で何かをやるということはありませんでしたが、実習が始まってくると夜遅くまで勉強したり、みんなで集まって夜9時過ぎからお茶会をしたり、というような厳しい中にも楽しみもある生活でした。

実習では、呼吸不全の患者さんを受け持たせていただいたのですけれども、患者さんはあまり部屋から出ることがなく、奥様がずっと看護を一緒にしているような方で、そこに一緒に寄り添いながら日々関わっていました。

自分から何かをやるということが少なかった患者さんが、前向きになって廊下を歩く姿が見られるようになったのです。

寄り添うことは自分でそれほど意識してやっているつもりはなかったのですが、実習を担当していた学校の先生が、私がやっていることに関して、「これはプロセスレコードを取って、きちんと自分の看護を振り返ると、今までやっていたことがすごくいいことだったことがわかるのではないか」とアドバイスをいただいて、呼吸不全の患者さんの看護についてプロセスレコードでまとめました。

患者さんも学生の私が寄り添っていろいろ聞いてくれることで勇気がわいたと言ってくださって、「看護ってすごくいいな」とその時に感じました。

就職から35年、赤十字と共に

とてもいいお話ですね。看護学校を卒業されて、そのまま赤十字の病院に就職されたのですか?

勅使河原:はい。もともと入学と同時に病院の試験も受けていて、この足利赤十字病院から委託生という形で、前橋赤十字看護専門学校に入学しました。

入学時には足利赤十字病院で3年以上働くことで、病院から奨学金を出していただいた経緯があります。

3年間を越えたあとも引き続きこちらに勤務されているのですね。

勅使河原:そうなのです。就職時からずっとここでお世話になっていて、もう35年が経ちました。

管理者の道に進まれる際は、周りからの推薦や立候補など、どのような形で管理に進まれたのでしょうか。

勅使河原:そうですね。赤十字では幹部候補生が行く「幹部看護婦研修所」という所があって、今でいうファーストレベルと同じような研修です。

私たちの時には「1年間の管理コースがあるので、行きたい人はいないか」ということは最初に言われました。

私は就職して10年くらいたった頃で、このままジェネラリストでいるのか、それとも管理を目指したいのかという将来のことを考えていた時期で、管理研修に行ってみたいという思いもあったので、立候補しました。

その後推薦もしていただいて、平成6年の1年間、広尾の研修センターで学んで、平成7年に戻ってきた後は小児科病棟に配属にされて、1年間スタッフとして勤務してから係長の役職をいただきました。

実際、スタッフナースから管理者になった時にいろいろ戸惑いがあったと思いますが、何か苦労されたことはございますか。

勅使河原:実際に係長という役割は、実践をしながら、夜勤もやっていますし、さらにそこで師長さんとスタッフとの橋渡しをしなければなりません。この病棟をどうしていきたいのかという師長のビジョンがある中で、それをスタッフに伝えていきながら、私がどうやって橋渡しをすればいいのかを考え、お互いに少しずつ意見の相違があったところを、管理をする側はこう考えている、スタッフはこう考えていますよとやりとりしたところが、やりがいがありながらも難しいと思いました。

その中間のところでいろいろお互いの意見を尊重しながら調整していくということですかね。

勅使河原:はい。

その後は係長から師長になられたのですか?

勅使河原:はい。2001年に師長になったのですが、その前年に結婚をして生活が大きく変わりました。

ちょうど病院の救急管理が、今までは当直制ということで管理師長が当直でやっていて、昼間の業務をしたあとに当直という形で入っていたものを、新たに夜勤の管理師長制度を導入するということで、私にその役割をしてくれないかという依頼が部長からありました。

結婚して1年しかたっていなかったので、夜勤専従になることへの葛藤が自分の中でありました。

主人にも相談する必要がありましたが、でも、そういうお声をかけていただいたということは、ここで自分が何かできるものがあるのではないかと考えたことと、主人も「協力できるよ」と言って賛成してくれたので、1年間夜勤専従で救急センターの管理師長をやらせていただきました。

1年間終わって次の年に外科病棟の師長を任せていただきましたが、初めてのことばかりで学ぶことがたくさんありました。

夜勤の管理をされていると、様々な場面に対して限られた人員の中で解決しなければなりませんよね。

勅使河原:わからないことがたくさんあったのですが、管理をする上ではわからないと言っていられませんから、そういう時には管理当直の医師に相談したりして解決することができました。

実際にまったく経験したことがないようなことも起こりましたが、そういう時にも臨機応変に、どこをどうしたらいいのかを考えながら、判断して進めていきました。

「困った時には私に連絡していいわよ」と部長も言って下さっていて、実際に連絡することはありませんでしたが、その言葉自体が私にとってとても心強い存在でしたね。

病院移転という重大任務を担って

外科の師長になられて、その後はどのようなキャリアを?

勅使河原:2002年から3年間、外科病棟で師長をやらせていただいて、2006年に出産のために産休と、1年間の育児休暇を取らせていただいて、2007年8月に復帰しました。

その時にまた外科の病棟に戻ったのですが、その半年後に小児科病棟の師長として異動して、2010年に副看護部長に昇任しました。

その翌年は新病院への移転の年で、ここから2〜3キロ離れた本城というところに旧病院があり、そこから現在の場所へ全面移転する大プロジェクトの患者の搬送の部分を任されました。

その指揮をとって、旧病院から1日で新病院に患者さんを搬送するという役割をさせていただきました。

最終的に夕方すべての患者さんが旧病院を出て、新病院に入った時にはホッとしましたね。

患者さんを移動することは大きな緊張ですね。

勅使河原:全面移転の時に、退院できる方は退院していただいたのですが、入院患者さんが全部で250名程いらっしゃいました。

その中で重症な患者さんから軽症な患者さんまでいらっしゃいますから、バスで移動する方であったり、あとは自衛隊の方にもご協力いただいたり、近隣の赤十字病院からお手伝いにきていただきました。

もちろん交通規制も必要になり、消防、救急、警察の方にもいろいろご協力いただいて、無事に患者さんを移動できました。

こんな経験は一生に一度のことだと思いますね。

病院の移転は本当に大変ですし、なかなか経験できないことですね。その中で特に苦労されたことはありますか。

勅使河原:精神科の患者さんをどのタイミングで新病院に移っていただけばいいかということについて、会議でいろいろ話し合いました。

精神科病棟の師長さんによると、患者さんご本人たちは新しい環境に行くと、落ち着かない状況になることがあるので、最初に移動していただく方がいいということになりました。

また、呼吸器をつけているような重症な患者さんをどのタイミングで移動するかは、非常に綿密に会議を重ねました。

旧病院が8階建だったので、8階から1階までエレベーターでどのくらいの時間がかかるか、新病院への移動にかかる時間がどのくらいかということも、実際にストレッチャーを持っていって、上から下までおろしてみて何分かかるか、タイムを測ってシミュレーションして本番に備えました。

病院移転というのはこんなにも大変なことなのだとその時感じました。

すごく貴重な経験でしたね。

勅使河原:そうですね、もう本当にこれは一生に一度のことだと思います。

そうですね。そのあと部長に就任されたのですか?

勅使河原:はい、2014年に看護部長を拝命しました。

2015年にJCI(Joint Commission International:国際病院評価機構)の認証取得を目指すことになって、看護部長に就任してすぐ5月ごろからJCIの審査に向けて準備が本格的に始まりました。

シミュレーションを重ねたり、海外の方と朝早くからWebで会議をしたりと関わり始めて、2月にJCIの本審査を受けて、2月7日に認定をいただきました。

今年が3年目で、来年2月ごろまた更新の時期を迎えるので、今その準備をしているところです。

後編へ続く

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