No. 42 原田良子様(ひたち医療センター)前編「当時は、2週間で夜勤入りだった」

No. 42 原田良子様(ひたち医療センター)前編「当時は、2週間で夜勤入りだった」

  • 2017年8月14日
  • インタビュー
No. 42 原田良子様(ひたち医療センター)前編「当時は、2週間で夜勤入りだった」
No. 42 原田良子様(ひたち医療センター)前編「当時は、2週間で夜勤入りだった」

今回はひたち医療センターの原田良子看護部長にインタビューさせて頂きました。
原田良子看護部長の手腕に迫ります。

 

 

就職から定年まで水戸協同病院

 

看護師を目指すようになったきっかけを教えて頂けますか。

 

原田:実は看護師になろうと思っていたわけではないのです。

中学生の担任の先生が、「これからの女性は職業婦人になっていかなければいけないぞ」と私に言っていたのです。

その時に、「これからそんな時代なんだなあ」と思い衛生看護科を受験しました。

その頃出来たばかりの学校で、2回生でした。

それで、看護の勉強をしていくうちに、高校3年生で「そのままではいけない」と感じて、専門学校に進学をしました。

その時も、まだまだ将来のイメージは漠然としていました。

実習で患者さんと接することがとっても楽しかったです。

看護師資格を得て就職したのが、水戸にある水戸協同病院でした。

その時は、「2、3年で結婚して辞めればいいかなあ?」なんて、そんな程度で考えていました。

最初は産婦人科の病棟でした。

他の病棟もあったのですが出産を見て「助産師もいいかなあ?」と思いました。

また、「女性って偉いなあ」、「こんな出産を経験するのに…」と感じました。

このようなことを考えているうちに「2、3年で結婚して辞めてたまるか」と、気持ちが変化してきたのです。そして「じゃ、もう少し頑張ろう」と思いまして、結婚、出産を控えていても一度も休みませんでした。

昔でしたので、産前6週産後8週しか休めず、ずっと働きっぱなしでした。子育ては協力してもらいましたが、病院の保育所に預けて、ずっと働いて今から2年半前、定年退職で水戸協同病院を60歳で退職しました。

 

 

途中で退職を考えたことはございますか。

 

原田:「結婚で辞めてはだめだ」と思いました。

また、出産のタイミングでも辞めてはだめだと思っていました。

確かに、子育て中は「本当に辞めようか?」と思ったことはありましたが、徐々に「ああ、看護って楽しいな」と思えるようになってきました。

「やっていて良かったなあ」と今は思います。

だから、強い意思なんか何もなくやって来られたのかも知れません。

 

ずっと続けようと考えていた訳ではなく、その時の状況に応じて自然体で働いてこられたという感じでしょうか。

 

原田:そうですね。

もっと頑張ろう、もっと頑張ろうというふうに「自然とやってこられた」そんな感じです。

確かに子育て中は大変でしたけど…。

 

 

看護師やってるお母さんが好きだよ

子育て中は大変なこともあったと思いますが、どのように乗り越えられてこられたのでしょうか。

 

原田:ありました。

本当に辞めようと思ったことが何回かありました。

最初の時は、上の子が産まれてしばらくして百日咳に罹った時でした。

1か月間ぐらい保育所にも預けられなくて、夫の実家に預けなければならかったのです。

その時に、「今からちょっと、師長に辞めるって言ってくるから」と勢い込んで向かったんですが、結局、言えませんでした。

子供が成長してきて、小学校入るようになってくると、いろんな面で、ほとんど学校の行事へ参加できなかったですね。

それで、「お母さん辞めようか?」と子供へ言った時に「うん、お母さん辞めてもいいんだけど、看護師やってるお母さんが好きだよ」って言ってくれたのです。

子供の方が上手なんです。

 

素敵なことですね。

 

原田:長男には、そのあとで「辞める理由を、僕たちのせいにしないで」と言われたのです。

「子供がいるから」とか「子供達のために」という理由で退職を考えていたことに気付かされました。

それも小っちゃかったんですよ。

「そっか、人のせいにして辞めるんじゃなくて、自分が選択してきちんと後悔のないようにならなきゃいけないなあ」と思いました。

やっぱり、子供が小さい時は、子育てとか、そんなことで悩んで辞めようと思っていました。

あとは、子供が成長してくると、今度はいろんな人とぶつかって本当に再就職先を考えたこともありました。

 

他の病院に移る?

 

原田:とは言っても、結局、ちゃんと定年まで勤めて良かったと今思っています。

 

経験を経ていくうちに、主任や師長へと順調に歩まれてきたのでしょうか。

 

原田: 30歳の時に主任になりました。

それまでは、病棟を何カ所か異動して、主任になったと同時に手術室に配属になりました。

これがまた結構大変なところでした。

長男の時には、ちゃんと入学式や卒業式にも行きましたけれど、その他の授業参観などは本当になかなか行ける状況ではありませんでした。

 

お子さまも、お母さんの働く姿勢を見て育っていかれたのですね。

 

原田:夫の協力もありましたけど真っ直ぐ育ってくれました。

自然体で育てられたと考えています。

 

お子さんの「看護師やってるお母さんが好きだよ」という言葉にも支えられた部分があったのではないでしょうか。

 

原田:それも、あったかも知れませんね。

 

 

当時の教育体制とこれまでの歩み

 

その頃の教育体制はどのようになっていたのでしょうか。

 

原田:特別、今のようにしっかりした教育体制があったわけではありません。

例えば、現在、新人で入ってきた看護師たちは、1年かけて育てます。

私たちの頃は、看護師も不足しておりまして、いきなり入った途端に2週間で夜勤に入るのです。

たった2週間です。

それも普通に当たり前に夜勤に入るのです。

その頃、准看護師の数が多かったので准看護師さんの先輩に教わるのです。

今とは、全く異なるものでした。

今の子たちのように大切に大切にという環境ではありませんでしたので入職した途端に夜勤の回数も多くて…。

そんな時代を辿ってきました…。

 

印象に残るようなエピソードをお聞かせ頂けないでしょうか。

 

原田:あの頃は3交代でした。

3交代でいつも眠かったという印象しかありません。

夜勤明けで帰って寝ての繰り返しでしたが、それでも、毎日が楽しかったです。

新人の時は、とにかく頑張っていました。

産婦人科で新生児なんか見ていると新鮮で良かったです。

出産して母親になっていく人を見ていると「こういう仕事もいいのかな?」と思っていた印象は残っています。

内科病棟、外来整形外科病棟、手術室と3〜4年程度で移動をしていくのですが、その中でも一番長かった手術室が一番楽しかったです。

 

手術室のどういうところが楽しかったのでしょうか。

 

原田:手術室の看護師は、1つの手術に対して100の準備をします。

手術中に起こりうる全てのことに対応ができる準備をして、準備をしておいた最小の対応で終わるというのが理想だと考えています。

どんなに小さな手術でも何が起こるか分かりません。

だから、患者さんは不安です。

万全の体制ができていれば患者さんも安心して手術を受けられるといつも考えていました。

それから、麻酔がかかっている患者さんの代弁者になろうと考えていました。

例えば、ただ寝ているだけでも「ここが痛い」って言えるわけではありません。

そういうところに気を配ることが手術室の看護ではないかと思います。

 

常に患者さんの気持ちになることが大切ということでしょうか。

 

原田:そういうところに一番やりがいを感じていました。

自分の気配りが患者さんにとって良い結果をもたらしたかその日のうちに分かりますから…。

 

 

師長になられて関心を持たれたことはございますか。

 

原田: ある時、患者さんが亡くなり訴訟に発展したことがありました。

訴訟で最高裁まで争った結果、不起訴となりました。

この経験をきっかけに安全管理に関心を持つようになりました。

この頃、患者取り違え事故や人工呼吸器の加湿にエタノールを取り違えた事故が起きて医療訴訟が多くなってきた時期でした。

私は、清瀬の看護研修センターで5日間に渡る医療安全管理者研修に参加させていただきました。

そして、副部長兼医療安全管理者として小さなインシデントから大きな事故を未然に防ぐ取り組みをしてきました。

 

医療安全に取り組むことによって、どのようなことが変わってきたことはございますか

 

原田:始めは、どのような事故が起きているか分からない状況でしたが、詳細に調査を繰り返していくと点と点が線で結ばれるようになりました。

原因が明らかになるにつれて、組織としてどう具体的に改善していくべきか検討を重ねるようになりました。

 

安全管理の他にはどのようなお仕事をされていらっしゃったのでしょうか。

 

原田:地域連携室でも働いていました。

そこも楽しかったです。

ベットコントロールと地域の方との交流を企画していました。

毎日の仕事は、ほとんどがベットコントロールでしたが救急車で来られるどのような状態の患者さんも断らない病院でした。

患者さんをいつでも収容できるように常に空床を確保するようにしていました。

救急搬送の連絡が入ると、どのベッドにどんな患者さんが入床するのかという情報を予め情報を流してベッドの用意をしてもらっていました。

それから、地域の医師のところへお伺いして相互協力体制のお願いに上がることもしていました。

とても楽しかったです。

水戸協同病院は、日本で初めてだと思いますが国立系大学と連携して病院の中に教育センターを作りました。

大学の医師や研修医たちがたくさん来るようになり院外の教授もお越しになりました。

それまでは、医師も少なかったり看護師もやめていったりする時代もありましたが研修センターが出来ることによって、医師も看護師も増えました。

 

 

 

後編に続く

 

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原田 良子様(ひたち医療センター)「患者さん、家族の一番を考えて」

 

嶋田 香織
A-LINE株式会社
シンカナース編集部及び営業本部長