No.22 阿部路子様(横須賀市立市民病院)前編「燃え尽きず働き続け、たどり着いた”自分がやりたい看護”の実現」

No.22 阿部路子様(横須賀市立市民病院)前編「燃え尽きず働き続け、たどり着いた”自分がやりたい看護”の実現」

  • 2017年7月20日
  • インタビュー
No.22 阿部路子様(横須賀市立市民病院)前編「燃え尽きず働き続け、たどり着いた”自分がやりたい看護”の実現」
No.22 阿部路子様(横須賀市立市民病院)前編「燃え尽きず働き続け、たどり着いた”自分がやりたい看護”の実現」

第22回目のインタビューは、横須賀市立市民病院の阿部路子(あべ みちこ)看護部長です。

前編では、看護師という職業を選択した経緯、結婚・子育てなどライフイベントとキャリア形成の両立、横須賀で看護実践を積み重ねてきたことについてお話を伺っています。

 

「生涯できる仕事」として選んだ看護師という道

 

看護師になろうと思われたきっかけから教えていただけますか?

 

阿部:看護職に憧れて、といった強い動機があったわけではなかったんです。

中学3年の頃「自分で生涯できる仕事がないかな?」と考えたことがあって、昔から近所の診療所の先生や、その家族との付き合があったこともあり、何となく「看護師」という選択肢が浮かびました。

高校に進学後も他の選択肢がなかなか見つからなかったので、「じゃあ看護師になろう」そんな気軽な気持ちで看護学校を受験しました。

地元の大学付属看護学校に合格していたのですが、知り合いの勧めもあって、順天堂大学の看護専門学校も受験して合格し、「一度は東京で勉強してみたい!」という本当に単純な気持ちで上京しました。

こんなに看護師を続けられるとはその時はあまり思っていませんでした。

 

看護師になる時に、絶対これで一生やっていこうという、そこまで強い思いではなかったのですね?

 

阿部:そうですね。結婚して子供が生まれたら、もしかしたら辞めるかもしれないけど、またいつかできる仕事かな、という気持ちでいました。

逆に、だから燃え尽きなかったのかもしれません。

 

最近の学生さんだと、看護師としての将来のビジョンが見えないことが多くて、ちょっとしんどいと感じることもあるようなのですが、部長は看護師として働くことをとても自然体で受け入れてるんだなと思いました。

 

阿部:今は、キャリアデザインとか、将来にどういうことを目指すかとか、そういうことが、もう学生時代から求められていますよね。

私たちの時代は、そういう教育はあまりありませんでしたから、逆に考えるとあんまり追い詰められなかった時代なのかもしれないです。

ただ、働く条件も厳しかったですし、今のようにサポート体制は十分ではなかったですけれども。

だからこそ、自分でやるべきところとちょっと力の抜けるところといった調整を、自分でできたのかなと思います。

今は、選択肢が多い割に、自分が判断できないうちに求められるという、厳しさもあるのかなと、最近学生さんたちのインターシップを見ていて思いますね。

 

やはりキャリアクルーは確かに最近はかなり、事前に踏まえてというところもあるので、敷居がちょっと高くなってしまったりっていうところも出てるんでしょうか?

 

阿部:生活のためとか、長く働き続けるためだけの資格として考えられる人と、すごく情熱を持って「こうらねば」と肩に力の入った学生さんと、両極端という印象を受けます。

「こうあらねば」と思った人は、働き始めた時に、理想と現実のギャップでかなり悩んで落ち込みますし、そこを乗り越えるにはハードルがちょっと高いように、見てて思います。

今もつながり続ける看護学校での縁

 

看護学校に入学してから印象に残るエピソードはありますか?

 

阿部:私が入った学校は、今考えるとすごく大事に育ててくれたように思います。

当時は、こんなに勉強しなきゃいけないのかと思うカリキュラムでしたから、遊ぶ暇はまずありませんでした。

それでも、みんなで楽しくやっていましたけど。

また、大学病院付属でしたので、実習をするにしても何にしても、自分たちの先輩たちがいらっしゃいましたから、本当に丁寧に教えていただきました。

2〜3年前三島に順天堂の2つ目の大学が出来たのですが、ご縁があって1期生の入学時のオリエンテーション合宿に呼んでいただいたんです。

長年臨床にたずさわってきた卒業生ということで、1時間ほど講演をして、先生方との懇親会にも参加してきました。

そこにいらした教授の先生が、私が看護学校3年生の時にもいらっしゃった先生で、私のことを覚えていてくださったんですよ。

何百人という学生に関わっていらしたのに覚えてくださっていたことにとても驚きまして「なぜ覚えていたのですか?」と聞いたら、私が卒業してすぐ実家の岩手のほうに戻ったことと、旧姓が久慈(くじ)という珍しい苗字だったので覚えているということでした。

 

ずっとつながりの中で看護実践をされてきたのですね。

新しく学校が出来た時に、またそこで、学生の時との関係がつながるというのはうれしいですね。

 

阿部:そうですね。本当に偶然だったんですよ。

そのきっかけになったのは、OBたちが集まる神奈川県在住者の順天堂卒業生の会があって、それまで出たことがなかったのに「出てみようかな」と思って行きました。

そこに新設の看護大学の学部長がいらしていて「今度、入学時オリエンテーション合宿があるから来ていただけないか?」という話になりました。

その時、ちょうど順天堂の看護部長を退任なさった方が来賓で来てくださっていて、私が学生時代外科病棟に実習に行った時に、師長をなさっていた方でした。

私が一番最初に「こんな看護師になりたい」と思ったのは、その師長さんを見たことがきっかけでした。

その時に「私の憧れでした」という話をして、いろんなお話が出来ました。

卒業して数十年たつのにつながりを感じられて、母校というのは良いなって思いました。

 

今、憧れの師長さんがいらっしゃったというお話がありましたが、学生時代、例えば実習でナースは厳しいという印象を持つことがあるかと思いますが、部長の場合は憧れる存在だったのですね。

 

阿部:そうですね。

決して優しい師長さんではなかったですよ。

だけど、凛とした姿や責任感がありましたし。

学生に対しても、優しさもありましたけど、厳しさもある方でした。

お話していることが、よく見ててくださっているのがわかる内容だったというところと、理にかなっていることしか言わなかったので、「ああいう人素敵だな」と思いました。

順天堂では働かなかったので、そういう人のもとで働けませんでしたけど。

一番最初に良いなと思った方でしたね。

 

学生の時に、憧れられるようなナースに会えるって素敵ですね。

どうしても学生側だと萎縮してしまったりして、そこまで目が行かなかったりすることが多いと思いますが、特にそういった壁はなく、良い人は「ああ、すごく良いな」と感じることができた特徴的なものは何でしょうか?

 

阿部:ただ単にその人が素敵だったということですね。

憧れるっていうことは、自分の理想だと言えると思うんです。

学生時代は、右左も分からず、看護というのもまだ明確でないわけです。

そういう中で良いなと思えるのは、本当にその人が輝いて見えるかということですね。

「素敵だな。ああいう人の下で働いてみたいな」と思いました。

でも、私が今まで働いてきたところには、そう思える人が必ずいらっしゃいましたので、すごく恵まれたと思いましたね。

「フルタイム」と「パート」、自身のライフイベントに即したキャリア選択

 

卒業後は就職でご実家に戻られたのですか?

 

阿部:岩手医科大学病院に就職して、心臓外科病棟で勤務しました。

右も左も全然分からない中でしたから、今考えると先輩たちがすごく大変だっただろうなあと思います。

でも、そこにもとても好きな先輩たちがいましたので、「ああいうふうな仕事ができるようになりたいなあ」と、その時も思いましたね。

 

岩手医科大学病院に就職しようと思った決め手はどんなことでしたか?

 

阿部:大学病院の付属の看護学校で学びましたので、実家に戻るなら大学病院がいいかなと思っていました。

父親がどうしても私を実家に戻したかったみたいで、「この病院がいいんじゃないか?」と提案した影響もあるかもしれません。

 

その時は、寮ではなく、ご実家から通われたのですか?

 

阿部:実家から車で30〜40分かかるところでしたが、実家から通いました。

夜勤で家を出る時は、普段いろいろ忙しくしている父親がちゃんと病院に送ってくれて。

2年ぐらいの短い期間でしたが。

 

その後のキャリアはどのような道を?

 

阿部:結婚しました。

夫の仕事の関係で函館に引っ越して、600床ほどある函館中央病院の外科病棟で働きました。

途中で出産と子育ても経験しましたが、当時は育休がない時代でしたから、子育て中はどうしても常勤で働けなかったので、非常勤で8年ほど働きました。
フルタイムで働いたのは2年ぐらいでした。

実はこの時パートで働いた経験が今とても役に立っています。

最近の看護師の働き方は様々で、「こういう形なら働ける?」とか、「働きたいけど働けないんだよね。気持ちは分かるよ」という会話は、その時の経験が役に立っているように思います。

無駄になる経験はないから、何でも経験することはいい事だから、とよく若い看護師たちに話しています。

 

横須賀に移るタイミングはどのような時期だったのですか?

 

阿部:夫が仕事で青函連絡船に乗っていたのですが、青函トンネルが通ったことで連絡船がなくなって、新たな職場が横須賀でしたのでこちらに引っ越しました。

この病院を選んだのは「隣の病院で募集中だよ」という、夫の一言でした。

子供は小学校1年生と4歳になっていましたが、非常勤でずっと働いているとなんだか物足りなくなってきて。

「自分の仕事をしたい」と思ってきている時期だったので、今度働く時は総合病院の常勤でという思いでこの病院に応募しました。

 

そこからはずっとこちらの病院で勤務を続けられたのですね。

 

阿部:はい。ですから看護師としてのキャリアを育ててもらったのは、この病院からですね。

 

「自分の仕事をしたい」を横須賀で叶え、管理職の道へ

 

就職当初はスタッフとして勤務されて、その後管理職へとステップアップされたということでしょうか?

 

阿部:主任になって、師長になって、副部長になって、部長になりました。

 

管理職になる一歩を踏み出す勇気がないという方もいらっしゃると思うのですが、そこを乗り切るためのアドバイスはありますでしょうか?

 

阿部:主任になる時には、今まで自分がやってきた仕事で、後輩を育てるためにっていうことで受け入れましたが、さすがに師長にって言われた時は、「いや、ちょっとどうかな?」と戸惑いました。

当時の部長から「自分がやりたい看護を実現するためには、一人だとできることが限られるでしょ?だから、自分の病棟を持って、スタッフを育てることが大事なのよ」と言われて、本当にそうだなと思いました。

 

ちょっとグッとくる言葉ですね。

 

阿部:その言葉で「これはやるしかないかな」と感じました。
当時は救急病棟と救急外来を兼務のところだったので、結構大変でしたが、今考えると、1番やりがいもありました。

夫から言わせると、その時代が一番輝いていてたそうですよ。

 

師長さんの時は救急という急性期の最前線で勤務されていたのですね。

いろいろな状態の患者さんが入ってこられると思うのですが、その対応にあたる中で、例えば、いろんな落ち込みを感じたりとか、プレッシャーを感じたりするスタッフの方もいらっしゃったのではないでしょうか?

 

阿部:病棟と外来2つを管轄して、それぞれに主任がおりましたので、とにかく主任と私とが同じ方向を向いて、「絶対方向性がぶれないようにしましょう」ということ、スタッフの情報をいち早く挙げてもらうということをお願いしました。

あとは、もちろん一緒にいますから、ちょっと「あれ?」と思う人は、「どのように面接していくか?」という話を日々していました。

年に3回ぐらいは、人事考課や教育のことで定期に面接をするのですが、その他にも何かあると「ちょっと、お話いい?」と声をかけて話をしていました。

とにかくスタッフと話すことが一番大事かなと思います。

今、師長さんたちにも、情報を早くキャッチすることの大切さは話しています。

救急の現場は患者さんの入れ替わりが激しくて、特に外来はその場でしか会わない患者さんが多いですから、今まで病棟でやってきた看護師は、「ここには看護がない」とか「私は何を目指してるのか?」などいろいろ訴えてくるわけです。

こちらがいろいろな課題をお願いすると、「もういっぱいです」と言いながら感情高ぶって泣き出してしまったこともありました。

その時は、「あなたが出来る範囲でやってもらいたいのだけどどう?」って言うと「頑張ります」と答えてくれて。

そうやって乗り越えて成長してきたスタッフが、今重要な役に付いてくれて、そういう姿を見るのもやっぱり大事ですよね。

私が何したわけではないんですけどその人が頑張れる力を後押しするのが役割ではないかと思います。

 

長年かけて少しずつ育っていく姿を、ずっと見てこられたのですね。

 

阿部:ここにいたお陰で見えているというのはありますね。

 

後編に続く

 

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病院概要

横須賀市立市民病院

 

中 友美
A-LINE株式会社 代表取締役社長 シンカナース編集長
北区医師会看護高等専修学校 東京都立公衆衛生看護専門学校 東洋大学文学部国文学科 明治大学大学院グローバルビジネス研究科 経営管理修士(MBA) 日本大学大学院総合社会情報研究科 博士後期課程在学中 ニュージーランド留学 A-LINE株式会社/代表取締役社長 東京医科歯科大学非常勤講師 著書『わたしの仕事シリーズ2 看護師』新水社