No.10 川﨑つま子様(東京医科歯科大学医学部附属病院)vol.3

インタビュー

vol.1vol.2に続き、東京医科歯科大学医学部附属病院の川﨑つま子看護部長のインタビューをお届けします。

vol.3では、人を育てることにあるという師長の役割について、看護部長と大学院を両立したことについて伺っています。

お話を聞き進めるにつれ、川﨑看護部長が周りからとても信頼される存在であることが伝わってきます。

師長の仕事は人育て

川﨑:教員生活を終えて病院に戻り、看護部で教育師長を3年やりました。

8年間の教員生活で育てた人たちが臨床で働いている中の教育でしたので、やりがいのある仕事でした。

教育師長っていい仕事だなと思いましたね。

評価をして次のプログラムを組んでスタッフたちを成長させていく、ということが楽しかったですね。

この時は院内の全看護師、約400人の顔と名前が全部わかっていました。

すれ違ってもどこの誰かわかるわけですね。 

川﨑:そうなんですよ。

現場に戻ることはずっと希望していて、できれば最初に経験した脳外科と神経内科がよかったんですけど、私が行ったのは救命センターでした。

でもこれがまたいい方向に影響しました。実践レベルは使えるものがないのでマネジメントに徹することができたんです。

なまじっかいろんなことを知っていて、例えば人工呼吸器のことを知っていたら、スタッフをかきわけてアラーム対応をしたり教えたりしていただろうと思います。

そのため自分の役割についてひたすら考えました。

そしてたどりついたのが「リスクマネジメント」と「患者家族をつなぐ調整者」という2つの役割でした。

患者さんはICUに入って家族とは分離された状態で過ごしています。

家族は基本医療知識に関しては素人で、中で行われている医療のことはわからないわけです。

そんな中で家族は想像がふくらんでしまい、不安ばかりが高まっていく。

スタッフは一生懸命ケアにあたっているので、そこで私が家族に介入して解説をする、いわば通訳のような役割でしたね。

リスクマネジメントは前面に出て、不具合なり誤解なりを私が誠実に対応して解決していました。

患者さんは救急車で運ばれてくることが多かったので、紛失物を探してなければそのことを説明することもありました。

5年間やりましたけどトラブルに発展したことはありませんでした。

やっぱり誠実に接すると伝わるんでしょうね。 

川﨑:スタッフたちはおそらく師長は「人工呼吸器のアラーム対応する人」ではなく、「自分たちが働きやすい環境を作ってくれる」役割だと感じ取ってくれていたんではないかと思います。

他には、看護部内での教育システムを作ったり、積極的に学会に出して発表する機会を設けたりもして後輩が成長できる環境を作りました。

私は今年還暦だったんですけど、この時のスタッフたちがお祝いをしてくれたんです。

唯一部下を持った師長経験がこの5年間だったので、それはもううれしかったですね。

実践はそんなにできなかったかもしれないけど、存在は認知してくれたんじゃないかと思いました。

大学院生と看護部長、2足のわらじ

川﨑:その後医療安全で2年間勤務しました。これもいい経験でしたね。

スタッフは一生懸命やっているのに、患者さんの誤解が生じてしまう現状がありました。

病棟の師長さんが、医療のことや意思決定のことを含めて説明して、患者さんとパイプを作ってくれたら誤解を減らすことができるのではないかと思ったんです。

そしたら患者さんは何かあれば師長さんに相談でき、どこかに電話したりかけこんだりということがなくなるのではないか。

そう考えているうちにこれを大学院で研究したいと思って、50歳すぎて進学することになったんです。

ところがその後転勤になってしまって、埼玉県にある小川赤十字病院に看護部長として勤務しました。

自宅から遠かったので、この時から単身赴任生活が始まりました。

看護部長と学生を両立されたのですか? 

川﨑:そうです。平日は仕事で大学院は週末土曜日の開講と集中講義でした。

グループリフレクションすることがマネジメント力の強化につながるのではないか、という研究をして、確信は持てましたし、ファシリテーターがカギだということもわかりました。

2年間で修了されたのですか? 

川﨑:はい。この時は4週6休だったので土曜日の出勤があったのですが、周りに協力してもらって両立することができました。

ありがたいことにみんな嫌な顔せずに協力してくれましたね。

3年間勤務しましたが、目の前の課題を解決するために先に赴任した院長が改革案をプランニングしていて、それをマネジメントすればいいんだということが明確だったので、みんなで取り組みましたね。達成感のある日々でしたよ。

その後、足利赤十字病院が新病院に移転するので、そこに行ってくれないかと打診されました。

これも私の仕事観の1つなんですけど「求められて働けるほど幸せなことはない」と思っていて。

ただ、さらに遠い単身赴任生活になるので夫に相談しました。

「毎週末帰ってきて、毎週月曜日に自宅から出勤できるならいいよ」という条件で認めてくれたんです。

これまでも同じ条件でやってきていたので、少し距離は増えるけどできるだろうと思って引き受けました。

片道64キロの距離を車で週末の金曜か土曜の夜遅くに帰って、月曜日は朝4時に起きて足利に出勤する。

そんな生活を3年間続けました。

東京医科歯科大学医学部附属病院に関する記事はコチラから

・インタビュー#10川﨑つま子様(東京医科歯科大学医学部附属病院様)vol.1

・インタビュー#10川﨑つま子様(東京医科歯科大学医学部附属病院様)vol.2

・インタビュー#10川﨑つま子様(東京医科歯科大学医学部附属病院様)vol.4

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